2011年01月05日
ディック・スレーター
ディック・スレーター(Dick Slater、1951年5月19日 - )はアメリカ合衆国の元プロレスラー。本名:リチャード・ヴァン・スレーター(Richard Van Slater)。フロリダ州タンパ出身。
日本では1980年前後の全日本プロレスにおいて、テリー・ファンクの弟分としてベビーフェイスでの人気を獲得したが、アメリカでは "ダーティー" ディック・スレーター("Dirty" Dick Slater)を名乗り[1]、主にヒールのポジションでNWAの南部テリトリーを中心に活動した。
その無鉄砲で荒っぽいファイトスタイルから、"Mr. Unpredictable" または "Mr. Excitement"の異名を持つ[1](日本では「喧嘩番長」と呼ばれた)。私生活でも気性が激しく喧嘩っ早いことで知られており、シューターとして名を馳せたボブ・ループとの私闘などの逸話も残している[2]。リック・フレアーも彼の喧嘩の強さを認めており、ハーリー・レイス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、マッドドッグ・バションらと並んでプロレス界でもトップクラスだったと自著で記している[3]。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 1970年代
1.2 1980年代
1.3 1990年代 / 近年
1.4 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]
1970年代 [編集]
タンパ大学時代はレスリングとアメリカンフットボールで活躍。フットボールのチームメイトにはポール・オーンドーフもいた[1]。マイアミ・ドルフィンズからのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人マイク・グラハムの仲介により、マイクの父エディ・グラハムが主宰するNWA傘下団体・CWF(Championship Wrestling from Florida)にて1972年にプロレス・デビュー[1][4]。
ラフファイトを身上とした若手のヒールとして売り出され、1973年には極道ヒール時代のダスティ・ローデスと組んでマイク・グラハム&ケビン・サリバンからフロリダ・タッグ王座を奪取、翌1974年には日系人ヒールのトール・タナカとのコンビでも同王座に戴冠した[5]。同年8月、全日本プロレスに初来日している。
1975年からはジム・バーネットが主宰するジョージアのGCWに参戦し、ボブ・オートン・ジュニアと喧嘩屋同士のタッグチームを結成、同年6月にボブ・アームストロング&ロバート・フラーからジョージア・タッグ王座を奪取した[6]。シングルでも1976年から1977年にかけて、ザ・スポイラー、ミスター・レスリング2号、ポール・ジョーンズらを破りジョージア・ヘビー級王座を獲得している[7]。
同時期に中西部地区にも遠征し、1977年8月13日にジャック・ブリスコを下してミズーリ・ヘビー級王座を奪取[8]。翌1978年2月にテッド・デビアスに敗れるまで、NWA世界ヘビー級王座への登竜門といわれた同タイトルを半年間に渡って保持し[8]、次期NWA世界王者の有力候補の1人となった。
王座陥落後は古巣のCWFに戻り、1978年から1980年にかけて、ペドロ・モラレス、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエルらを破り南部ヘビー級王座を通算4回獲得[9]。また、1978年下期にはキラー・カール・コックスと組んでジャック&ジェリー・ブリスコからUSタッグ王座を[10]、1979年1月にはジョー・ルダックからフロリダ・ヘビー級王座を[11]それぞれ奪取している。
1979年はアラバマのSECW(Southeastern Championship Wrestling)にも進出し、5月にジェリー・ブラックウェルと組んでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニアからサウスイースタン・タッグ王座を奪取、10月には旧友ポール・オーンドーフとのコンビで同王座を再度獲得した[12]。シングルではモンゴリアン・ストンパーやロン・ガービンとサウスイースタン・ヘビー級王座を争っている[13]。
1980年代 [編集]
1980年まではフロリダのCWFを主戦場に活動し、ダスティ・ローデスやバリー・ウインダムと南部ヘビー級王座を巡る抗争を展開。同時期、日本ではベビーフェイスとして絶大な人気を得ていたが(後述)、同地区ではイワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、アレックス・スミルノフらロシア人ギミックの反米ユニットとも共闘し[14]、観客のブーイングを浴びた。また、ミスター・サイトーともタッグを組み、1980年7月に行われたUSタッグ王座争奪トーナメントに出場したことがある[15]。
フロリダを離れるとテキサス州サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)に進出。1981年2月に交通事故に遭い、平衝感覚を失う後遺症が出たためしばらく欠場するも[16]、カムバック後の8月にマニー・フェルナンデスからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取[17]。翌1982年にはブルーザー・ブロディと組んでダイナミック・デュオ(ジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャード)から世界タッグ王座も奪取している[18]。
1983年からはジム・クロケット・ジュニアが主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。盟友ボブ・オートン・ジュニアと共にNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスのボディーガード役を務め、当時ベビーフェイスのポジションにいたリック・フレアーを襲撃するなど、『スターケード』に向けてのフレアーのNWA王座返り咲きアングル "A Flair For The Gold" において、ヒール・サイドの主要キャストを演じた[19]。また、同地区ではマイク・ロトンド、ロディ・パイパー、ルーファス・ジョーンズ、グレッグ・バレンタインらを下し、シングル・タイトルも再三獲得している[20]。
1985年よりビル・ワットのMSWAに登場し、翌1986年1月にブッチ・リード、2月にジェイク・ロバーツを破りミッドサウス北米ヘビー級王座を獲得[21]。MSWAでは黒人女子レスラーのダーク・ジャーニーことリンダ・ニュートンをマネージャーに従えていた[22]。
1986年下期、ザ・レベル(The Rebel)をニックネームに、南北戦争の南軍キャラクターのベビーフェイスとしてWWFに参戦。カナダのトロントにて6万人を超える観客を動員した8月28日の "The Big Event" ではマイク・シャープから勝利を収めている[23]。WWFには1987年初頭まで在籍し、『サタデー・ナイト・メイン・イベント』などの番組でドン・ムラコ、アイアン・シーク、ディノ・ブラボーらと対戦、NWA時代の旧友グレッグ・バレンタインやカウボーイ・ボブ・オートンとも試合を行ったが、目立った活躍は果たせなかった。
WWF離脱後は、カート・ヘニングのボディーガード役としてAWAに短期間出場。その後、NWAセントラル・ステーツ地区のプロモーターだったボブ・ガイゲルが新設したWWAのリングに上がり、1988年1月23日に行われた世界ヘビー級王者決定トーナメントではマイク・ジョージと決勝を争った[24]。1989年にはテッド・ターナーに買収されて間もない旧クロケット・プロに復帰し、マネージャーのゲーリー・ハート率いるヒール軍団 "J-Tex Corporation" に加入するが(メンバーはテリー・ファンク、グレート・ムタ、ザ・ドラゴンマスター、バズ・ソイヤー)、WCWへの体制移行に伴い短期間で解雇された[25]。
1990年代 / 近年 [編集]
1990年、ジェリー・ジャレット(後のTNA総帥)とジェリー・ローラーが主宰するテネシー州メンフィスのUSWAに登場。9月1日、空位となっていた南部ヘビー級王者に認定されるが、1カ月後の10月6日にジェフ・ジャレットに敗れ王座から陥落した[26]。
1991年にWCWと再契約し、ディック・マードックとザ・ハードライナーズ(The Hardliners)なるレッドネック系のヒール・タッグチームを結成[27]。以降、1990年代はWCWを主戦場に、1992年6月にはザ・バーバリアンをパートナーにファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)からUSタッグ王座を奪取[28]。その後、カーネル・ロバート・パーカーをマネージャーにテリー・ファンクやバンクハウス・バックらと南部人ユニットを結成。1995年7月にはバックとのコンビでハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)からWCW世界タッグ王座も奪取している[29]。
1996年に背骨を負傷して引退し[4]、地元のフロリダで小売業者に転身[30]。2003年12月27日、交際相手の女性にナイフで傷を負わせたとして逮捕され、1年間の自宅軟禁と2年間の保護観察処分の判決を受けるとともに、被害者の女性への1万8000ドルの賠償金の支払いを命じられた[4]。古傷である背骨の痛みを抑えるために服用していた薬物(モルヒネとオキシコンチン)の影響だったと本人は語っている[27]。
日本での活躍 [編集]
フロリダでテリー・ファンクとタッグを組んだ関係から、1974年8月にファンク一家の一員としてテリーに帯同し全日本プロレスに初来日(同シリーズには、後にタッグを組むキラー・カール・コックスも参戦しており、ディック・マードックも覆面レスラーのザ・トルネードとして開幕戦に出場。後半戦にはドリー・ファンク・ジュニアも来日した)。テリーそっくりのファイトスタイルから「右利きのテリー」とあだ名され[30]、以降も同世代のジャンボ鶴田の好敵手として全日本の常連外国人選手となった。なお、日本ではラフファイターとしてのキャラクターイメージを活かすために「学生時代は不良で鳴らし、酒場でポール・ジョーンズに喧嘩を売って返り討ちに遭うも、その度胸と腕っ節をエディ・グラハムに見込まれスカウトされた」などと紹介されていた[16][30]。
1980年のチャンピオン・カーニバル(第8回大会)では兄貴分のテリー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント馬場らを抑え決勝進出、ジャンボ鶴田と覇を争った。ブッチャーの火炎攻撃で右眼を焼かれ、眼帯を着けながらの果敢なファイトで観客の声援を集めるなど、この時期はスレーターの日本における絶頂期であった[16]。1981年の交通事故後は精彩を欠き始めトップ戦線からは脱落していったものの、以降も全日本への参戦を続け、1990年11月まで通算17回に渡って来日した[30]。
タイトルには鶴田や天龍源一郎のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1978年にはテリー・ファンク、1983年にはロディ・パイパーとのコンビで馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦している。世界最強タッグ決定リーグ戦には1980年にリッキー・スティムボート、1982年にハーリー・レイス、1988年にトミー・リッチ、1990年にジョー・ディートンと組んで出場した。
1994年7月にはIWAジャパンに来日し、IWA世界ヘビー級王者決定トーナメントに出場。決勝で荒谷信孝を破って初代チャンピオンとなり[31]、日本マットにおける初載冠を果たした。
得意技 [編集]
エルボー・ドロップ
エルボー・スタンプ
ナックル・パンチ
ロシアン・レッグ・スウィープ
フィギュア・4・レッグロック
獲得タイトル [編集]
NWAセントルイス
NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
CWF
NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回
NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):4回
NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
NWAフロリダ・タッグ王座:4回(w / ダスティ・ローデス、スタン・バション、トール・タナカ、ジョニー・ウィーバー)
NWAフロリダTV王座:2回
NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / キラー・カール・コックス)
GCW
NWAジョージア・ヘビー級王座:4回
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ボブ・オートン・ジュニア)
NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ボブ・オートン・ジュニア)
SECW(アラバマ)
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:3回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジェリー・ブラックウェル、ポール・オーンドーフ)
SCW(サンアントニオ)
SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:2回
SCWサウスウエスト・タッグ王座:1回(w / ボブ・スウィータン)
SCW世界タッグ王座:1回(w / ブルーザー・ブロディ)
NWAミッドアトランティック
NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
NWAミッドアトランティックTV王座:2回
NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ダスティ・ローデス)
NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回
WCW
WCW USタッグ王座:1回(w / ザ・バーバリアン)
WCW世界タッグ王座:1回(w / バンクハウス・バック)
MSWA / UWF
ミッドサウス北米ヘビー級王座:2回
ミッドサウスTV王座:1回
UWF世界TV王座:1回
USWA
USWA南部ヘビー級王座:1回
IWA JAPAN
IWA世界ヘビー級王座:1回
日本では1980年前後の全日本プロレスにおいて、テリー・ファンクの弟分としてベビーフェイスでの人気を獲得したが、アメリカでは "ダーティー" ディック・スレーター("Dirty" Dick Slater)を名乗り[1]、主にヒールのポジションでNWAの南部テリトリーを中心に活動した。
その無鉄砲で荒っぽいファイトスタイルから、"Mr. Unpredictable" または "Mr. Excitement"の異名を持つ[1](日本では「喧嘩番長」と呼ばれた)。私生活でも気性が激しく喧嘩っ早いことで知られており、シューターとして名を馳せたボブ・ループとの私闘などの逸話も残している[2]。リック・フレアーも彼の喧嘩の強さを認めており、ハーリー・レイス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、マッドドッグ・バションらと並んでプロレス界でもトップクラスだったと自著で記している[3]。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 1970年代
1.2 1980年代
1.3 1990年代 / 近年
1.4 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]
1970年代 [編集]
タンパ大学時代はレスリングとアメリカンフットボールで活躍。フットボールのチームメイトにはポール・オーンドーフもいた[1]。マイアミ・ドルフィンズからのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人マイク・グラハムの仲介により、マイクの父エディ・グラハムが主宰するNWA傘下団体・CWF(Championship Wrestling from Florida)にて1972年にプロレス・デビュー[1][4]。
ラフファイトを身上とした若手のヒールとして売り出され、1973年には極道ヒール時代のダスティ・ローデスと組んでマイク・グラハム&ケビン・サリバンからフロリダ・タッグ王座を奪取、翌1974年には日系人ヒールのトール・タナカとのコンビでも同王座に戴冠した[5]。同年8月、全日本プロレスに初来日している。
1975年からはジム・バーネットが主宰するジョージアのGCWに参戦し、ボブ・オートン・ジュニアと喧嘩屋同士のタッグチームを結成、同年6月にボブ・アームストロング&ロバート・フラーからジョージア・タッグ王座を奪取した[6]。シングルでも1976年から1977年にかけて、ザ・スポイラー、ミスター・レスリング2号、ポール・ジョーンズらを破りジョージア・ヘビー級王座を獲得している[7]。
同時期に中西部地区にも遠征し、1977年8月13日にジャック・ブリスコを下してミズーリ・ヘビー級王座を奪取[8]。翌1978年2月にテッド・デビアスに敗れるまで、NWA世界ヘビー級王座への登竜門といわれた同タイトルを半年間に渡って保持し[8]、次期NWA世界王者の有力候補の1人となった。
王座陥落後は古巣のCWFに戻り、1978年から1980年にかけて、ペドロ・モラレス、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエルらを破り南部ヘビー級王座を通算4回獲得[9]。また、1978年下期にはキラー・カール・コックスと組んでジャック&ジェリー・ブリスコからUSタッグ王座を[10]、1979年1月にはジョー・ルダックからフロリダ・ヘビー級王座を[11]それぞれ奪取している。
1979年はアラバマのSECW(Southeastern Championship Wrestling)にも進出し、5月にジェリー・ブラックウェルと組んでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニアからサウスイースタン・タッグ王座を奪取、10月には旧友ポール・オーンドーフとのコンビで同王座を再度獲得した[12]。シングルではモンゴリアン・ストンパーやロン・ガービンとサウスイースタン・ヘビー級王座を争っている[13]。
1980年代 [編集]
1980年まではフロリダのCWFを主戦場に活動し、ダスティ・ローデスやバリー・ウインダムと南部ヘビー級王座を巡る抗争を展開。同時期、日本ではベビーフェイスとして絶大な人気を得ていたが(後述)、同地区ではイワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、アレックス・スミルノフらロシア人ギミックの反米ユニットとも共闘し[14]、観客のブーイングを浴びた。また、ミスター・サイトーともタッグを組み、1980年7月に行われたUSタッグ王座争奪トーナメントに出場したことがある[15]。
フロリダを離れるとテキサス州サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)に進出。1981年2月に交通事故に遭い、平衝感覚を失う後遺症が出たためしばらく欠場するも[16]、カムバック後の8月にマニー・フェルナンデスからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取[17]。翌1982年にはブルーザー・ブロディと組んでダイナミック・デュオ(ジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャード)から世界タッグ王座も奪取している[18]。
1983年からはジム・クロケット・ジュニアが主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。盟友ボブ・オートン・ジュニアと共にNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスのボディーガード役を務め、当時ベビーフェイスのポジションにいたリック・フレアーを襲撃するなど、『スターケード』に向けてのフレアーのNWA王座返り咲きアングル "A Flair For The Gold" において、ヒール・サイドの主要キャストを演じた[19]。また、同地区ではマイク・ロトンド、ロディ・パイパー、ルーファス・ジョーンズ、グレッグ・バレンタインらを下し、シングル・タイトルも再三獲得している[20]。
1985年よりビル・ワットのMSWAに登場し、翌1986年1月にブッチ・リード、2月にジェイク・ロバーツを破りミッドサウス北米ヘビー級王座を獲得[21]。MSWAでは黒人女子レスラーのダーク・ジャーニーことリンダ・ニュートンをマネージャーに従えていた[22]。
1986年下期、ザ・レベル(The Rebel)をニックネームに、南北戦争の南軍キャラクターのベビーフェイスとしてWWFに参戦。カナダのトロントにて6万人を超える観客を動員した8月28日の "The Big Event" ではマイク・シャープから勝利を収めている[23]。WWFには1987年初頭まで在籍し、『サタデー・ナイト・メイン・イベント』などの番組でドン・ムラコ、アイアン・シーク、ディノ・ブラボーらと対戦、NWA時代の旧友グレッグ・バレンタインやカウボーイ・ボブ・オートンとも試合を行ったが、目立った活躍は果たせなかった。
WWF離脱後は、カート・ヘニングのボディーガード役としてAWAに短期間出場。その後、NWAセントラル・ステーツ地区のプロモーターだったボブ・ガイゲルが新設したWWAのリングに上がり、1988年1月23日に行われた世界ヘビー級王者決定トーナメントではマイク・ジョージと決勝を争った[24]。1989年にはテッド・ターナーに買収されて間もない旧クロケット・プロに復帰し、マネージャーのゲーリー・ハート率いるヒール軍団 "J-Tex Corporation" に加入するが(メンバーはテリー・ファンク、グレート・ムタ、ザ・ドラゴンマスター、バズ・ソイヤー)、WCWへの体制移行に伴い短期間で解雇された[25]。
1990年代 / 近年 [編集]
1990年、ジェリー・ジャレット(後のTNA総帥)とジェリー・ローラーが主宰するテネシー州メンフィスのUSWAに登場。9月1日、空位となっていた南部ヘビー級王者に認定されるが、1カ月後の10月6日にジェフ・ジャレットに敗れ王座から陥落した[26]。
1991年にWCWと再契約し、ディック・マードックとザ・ハードライナーズ(The Hardliners)なるレッドネック系のヒール・タッグチームを結成[27]。以降、1990年代はWCWを主戦場に、1992年6月にはザ・バーバリアンをパートナーにファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)からUSタッグ王座を奪取[28]。その後、カーネル・ロバート・パーカーをマネージャーにテリー・ファンクやバンクハウス・バックらと南部人ユニットを結成。1995年7月にはバックとのコンビでハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)からWCW世界タッグ王座も奪取している[29]。
1996年に背骨を負傷して引退し[4]、地元のフロリダで小売業者に転身[30]。2003年12月27日、交際相手の女性にナイフで傷を負わせたとして逮捕され、1年間の自宅軟禁と2年間の保護観察処分の判決を受けるとともに、被害者の女性への1万8000ドルの賠償金の支払いを命じられた[4]。古傷である背骨の痛みを抑えるために服用していた薬物(モルヒネとオキシコンチン)の影響だったと本人は語っている[27]。
日本での活躍 [編集]
フロリダでテリー・ファンクとタッグを組んだ関係から、1974年8月にファンク一家の一員としてテリーに帯同し全日本プロレスに初来日(同シリーズには、後にタッグを組むキラー・カール・コックスも参戦しており、ディック・マードックも覆面レスラーのザ・トルネードとして開幕戦に出場。後半戦にはドリー・ファンク・ジュニアも来日した)。テリーそっくりのファイトスタイルから「右利きのテリー」とあだ名され[30]、以降も同世代のジャンボ鶴田の好敵手として全日本の常連外国人選手となった。なお、日本ではラフファイターとしてのキャラクターイメージを活かすために「学生時代は不良で鳴らし、酒場でポール・ジョーンズに喧嘩を売って返り討ちに遭うも、その度胸と腕っ節をエディ・グラハムに見込まれスカウトされた」などと紹介されていた[16][30]。
1980年のチャンピオン・カーニバル(第8回大会)では兄貴分のテリー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント馬場らを抑え決勝進出、ジャンボ鶴田と覇を争った。ブッチャーの火炎攻撃で右眼を焼かれ、眼帯を着けながらの果敢なファイトで観客の声援を集めるなど、この時期はスレーターの日本における絶頂期であった[16]。1981年の交通事故後は精彩を欠き始めトップ戦線からは脱落していったものの、以降も全日本への参戦を続け、1990年11月まで通算17回に渡って来日した[30]。
タイトルには鶴田や天龍源一郎のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1978年にはテリー・ファンク、1983年にはロディ・パイパーとのコンビで馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦している。世界最強タッグ決定リーグ戦には1980年にリッキー・スティムボート、1982年にハーリー・レイス、1988年にトミー・リッチ、1990年にジョー・ディートンと組んで出場した。
1994年7月にはIWAジャパンに来日し、IWA世界ヘビー級王者決定トーナメントに出場。決勝で荒谷信孝を破って初代チャンピオンとなり[31]、日本マットにおける初載冠を果たした。
得意技 [編集]
エルボー・ドロップ
エルボー・スタンプ
ナックル・パンチ
ロシアン・レッグ・スウィープ
フィギュア・4・レッグロック
獲得タイトル [編集]
NWAセントルイス
NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
CWF
NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回
NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):4回
NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
NWAフロリダ・タッグ王座:4回(w / ダスティ・ローデス、スタン・バション、トール・タナカ、ジョニー・ウィーバー)
NWAフロリダTV王座:2回
NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / キラー・カール・コックス)
GCW
NWAジョージア・ヘビー級王座:4回
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ボブ・オートン・ジュニア)
NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ボブ・オートン・ジュニア)
SECW(アラバマ)
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:3回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジェリー・ブラックウェル、ポール・オーンドーフ)
SCW(サンアントニオ)
SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:2回
SCWサウスウエスト・タッグ王座:1回(w / ボブ・スウィータン)
SCW世界タッグ王座:1回(w / ブルーザー・ブロディ)
NWAミッドアトランティック
NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
NWAミッドアトランティックTV王座:2回
NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ダスティ・ローデス)
NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回
WCW
WCW USタッグ王座:1回(w / ザ・バーバリアン)
WCW世界タッグ王座:1回(w / バンクハウス・バック)
MSWA / UWF
ミッドサウス北米ヘビー級王座:2回
ミッドサウスTV王座:1回
UWF世界TV王座:1回
USWA
USWA南部ヘビー級王座:1回
IWA JAPAN
IWA世界ヘビー級王座:1回
Posted by tokyokarasu2010 at 01:58│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。